人物:
 ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(詩人・小説家)
  *後に貴族の称号フォンを与えられる
 
生没:
 1749年8月28日〜1832年
 
概略:
 ドイツ文学界の巨匠。後世の文学者や哲学者に与えた影響は計り知れない。
 
 美食家で大食い、しかもワイン通。老年期はブクブクと醜く太っていたという。
 
 10歳年下の詩人シラーとは長年にわたり深い親交を続けた。「温順なクセーニエン」は2人の共作。しかし、若い頃のシラーは嫌いだったようである。
 
 30代は文学だけでなく、ヴァイマル(ドイツの小都市)の行政全般に深く関わっている。数多くの公職を兼任し、その生活は多忙を極めた。しかし次第にその忙しさに耐えられなくなり、突然イタリアへ約2年間の旅に出てしまう。
 
 作曲家シューベルトが「魔王」を読んで感動し、18歳の時その詩に曲を付ける。「魔王」は「野ばら」などと共にシューベルト歌曲の代表作となる。
 
 59歳の時にナポレオンと会見してから、彼の熱烈な信奉者となる。後年、ドイツ各地に反ナポレオン運動が広まっていた頃でさえ、彼にもらった勲章を堂々とぶら下げていたそうである。
 
 作曲家ベートーベンが「海の静けさ」「幸ある航海」に曲を付け献呈したが、これを無視。後に「休みなき愛」などにも曲を付けるが、これも無視。当時、大作曲家としての地位を確立しつつあったベートーベンの狙いは、文豪の持つ巨大な政治力であった。しかし当の本人は、ベートーベンからのアプローチには何一つ反応を示さなかった。文豪の政治力のお陰で、講師から教授へと一足飛びに昇進した大哲学者ヘーゲルとは対照的である。文豪ゲーテ、楽聖ベートーベン、哲学の完成者ヘーゲルという、ドイツが同時期に輩出した各界の巨人同士のつながりは、まさに文字通り「コネ」であった。
 
 74歳の時、19歳の家政婦ウルリーケに求婚する。が、彼女からはっきりとした回答を得られず、周囲の猛烈な反対もあって、結局結婚には至らなかった。しかし、その後もウルリーケは以前と変わることなく、この老詩人が死ぬまで身の回りの世話を続けたという。
 
 最期の言葉「もっと光を」は、高齢のため視力が低下し、眼前がほとんど見えなかったことによる。「カーテンを開けてくれ」の意だったらしい。
 
著作:
 哀歌
 ソネット
 神と世界
 西東詩編
 ヴェニス警句
 四季
 神と心情と世界
 温順なクセーニエン
 若きウェルテルの悩み
 ヴィルヘルム・マイスターの修業時代
 ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代
 ヘルマンとドロテーア
 ファウスト
 イタリア紀行
 格言と反省
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