知らぬが仏
            
通 説

 腹の立つことや恨めしく感じることを知らなければ、まるで煩悩を解脱した仏のように安らかな心持ちでいられるということ。事実に気がつかずに平気で過ごしている人間を嘲笑するときにもつかう。「聞かぬが仏」ともいう。

  
   
珍解釈

 菩提樹の木の下で何年間も座禅を組んで、ついに悟りの境地に達した仏陀。しかし、悟りは開いたものの、何年間も俗世との交流を断っていたため、世の中の事情に疎くなり、世間では誰もが知っている話題にすらまったく付いていけなくなってしまった。やがて人々はそんな何も知らない仏陀を相手にしなくなる。自分の無知を痛感した仏陀は、現代用語の基礎知識なる分厚い書物を買い込み、猛勉強を始めたが、座禅で空っぽになった頭では到底覚え切れる量ではなかった。しかも世情の移り変わりは激しく、数年間のブランクは埋まるどころか、ますます大きくなる一方である。今度は世間に追いつけないことを悟った仏陀は、ついに自らの命を絶ち、本物の仏様になってしまった。転じて、悟りなど開くよりも、世情に通じていることの方が大事である。世間に疎くなった人間は結局は仏様になるしかないというたとえ。

  
   
教訓

 仏陀を他人事やと笑ってられまへんでぇ。たとえばコンピュータの世界なんか、ちょっと油断してたら、すぐに浦島太郎状態になりますさかいな。でも仏陀の頃なんかまだええ方でっせ。今は世間に付いて行こ思うたら、どえらい金かかりますよってな。ほんまえらい世の中や。

 
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