彼の母親は彼が生まれる以前から、
心の中に一人の子供を持っていた。
彼は赤ん坊の頃、よく泣く子供だった。
母親はいつも不機嫌な顔をしながら彼をあやした。
彼女の心の中の子供はいつもニコニコし、
決して泣いて困らせたりしない赤ん坊であった。
彼が五歳の時、近所の子供と喧嘩をして帰って来た。
他愛のない子供同士の喧嘩だったが、
母親は彼を厳しく叱りつけた。
彼女の心の中の子供は決して喧嘩などしない、
いつも大人しい園児であった。
彼が九歳の頃、テレビで野球を見ながら、
自分も野球を始めたいと言い出した。
母親はその言葉を聞いて猛反対した。
彼女の心の中の子供は野球より算数の好きな小学生であった。
彼が十六歳の時、友達とバイクに興味を持ち、
バイクの免許を取りたいと言った。
母親はバイクに乗るのは危険だと言って反対した。
彼女の心の中の子供は外に遊びに行くより、
いつも家の中にいるのが好きな少年であった。
彼が十八歳の時、大学へは進学せず、
高校を卒業したら俳優になりたいと言い出した。
母親は大学へ進学する以外の道は絶対に認めなかった。
彼女の心の中の子供は大学を卒業して、
将来は公務員を志望する高校生であった。
彼が二十四歳の時、家に女の子を連れて来て、
彼女と結婚したいと言い出した。
母親はその活発でよく喋る女の子を見て、
結婚には反対だと、後で彼に言った。
彼女の心の中の子供は活発で元気な女の子よりも、
物静かで控えめな女の子を選ぶ青年であった。
彼が二十九歳の時、母親が突然病気で倒れた。
病院のベッドで、死を間際にした自分の傍らにいるわが子を見て、
立派な人間に成長したと満足そうに微笑んでいた。
「これからずっと面倒を見てくれるんだね」
別人に成長したわが子に、そう語りかけたが
彼は冷たい目で彼女を見つめるだけだった。
しかし、心の中に献身的な孝行息子を持つ彼女には、
それが病気の母親に対する悲しみとしか見えなかった。
彼女はわが子の姿を知らなかった。
わが子の心を知らなかった。
わが子の人生を知らなかった。
彼女が見続けたのは心の中で成長していく子供だけであった。
自分の不満や劣等感を代償してくれる心の中の子供だけであった。
彼は医者に母親の延命治療を止めるよう、そっと願い出た。
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