Volume120

 

 

 彼の母親は彼が生まれる以前から、
 心の中に一人の子供を持っていた。

 彼は赤ん坊の頃、よく泣く子供だった。
 母親はいつも不機嫌な顔をしながら彼をあやした。
 彼女の心の中の子供はいつもニコニコし、
 決して泣いて困らせたりしない赤ん坊であった。

 彼が五歳の時、近所の子供と喧嘩をして帰って来た。
 他愛のない子供同士の喧嘩だったが、
 母親は彼を厳しく叱りつけた。
 彼女の心の中の子供は決して喧嘩などしない、
 いつも大人しい園児であった。

 彼が九歳の頃、テレビで野球を見ながら、
 自分も野球を始めたいと言い出した。
 母親はその言葉を聞いて猛反対した。
 彼女の心の中の子供は野球より算数の好きな小学生であった。

 彼が十六歳の時、友達とバイクに興味を持ち、
 バイクの免許を取りたいと言った。
 母親はバイクに乗るのは危険だと言って反対した。
 彼女の心の中の子供は外に遊びに行くより、
 いつも家の中にいるのが好きな少年であった。

 彼が十八歳の時、大学へは進学せず、
 高校を卒業したら俳優になりたいと言い出した。
 母親は大学へ進学する以外の道は絶対に認めなかった。
 彼女の心の中の子供は大学を卒業して、
 将来は公務員を志望する高校生であった。

 彼が二十四歳の時、家に女の子を連れて来て、
 彼女と結婚したいと言い出した。
 母親はその活発でよく喋る女の子を見て、
 結婚には反対だと、後で彼に言った。
 彼女の心の中の子供は活発で元気な女の子よりも、
 物静かで控えめな女の子を選ぶ青年であった。

 彼が二十九歳の時、母親が突然病気で倒れた。
 病院のベッドで、死を間際にした自分の傍らにいるわが子を見て、
 立派な人間に成長したと満足そうに微笑んでいた。
 「これからずっと面倒を見てくれるんだね」
 別人に成長したわが子に、そう語りかけたが
 彼は冷たい目で彼女を見つめるだけだった。
 しかし、心の中に献身的な孝行息子を持つ彼女には、
 それが病気の母親に対する悲しみとしか見えなかった。

 彼女はわが子の姿を知らなかった。
 わが子の心を知らなかった。
 わが子の人生を知らなかった。
 彼女が見続けたのは心の中で成長していく子供だけであった。
 自分の不満や劣等感を代償してくれる心の中の子供だけであった。

 彼は医者に母親の延命治療を止めるよう、そっと願い出た。

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